~開港70周年~ 小名浜港と三崎組の歴史

荒波の中に築かれた「港」の礎
令和8年に開港70周年を迎える小名浜港の歴史は、まさに幾多の困難を乗り越えてきた不屈の挑戦の物語です 。古くは磐城各藩の納付米を運び出す拠点として栄え、幕末に石炭が発見されると、常磐地区から馬車鉄道で運ばれてくる石炭を「はしけ」へと積み替える石炭用桟橋が地域の活気を支えました 。しかし、明治30年の日本鉄道磐城線の開通により輸送の主役が鉄道へと移り、小名浜港の石炭取扱量は一時激減してしまいます 。
この逆境に際し、小名浜の人々は決して屈しませんでした。大正時代、漁船の大型化・動力化に対応するため、小名浜町民は一丸となって「新時代の港づくり」を掲げた築港運動を展開します 。その情熱は、大正12年の県営小名浜漁港修築完成という形で見事に結実しました 。同年9月に関東大震災が発生すると、鉄道網の混乱により常磐炭の海上輸送への需要が再び高まり、大型船が利用可能な「商港」としての整備機運が一気に加速しました。
株式会社三崎組の誕生 小名浜への「骨を埋める覚悟」
この歴史的な転換期において、小名浜の地に一つの大きな志が根を下ろしました。昭和2年、小名浜港が国の重要港湾に指定され 、昭和4年には商港修築第一期計画が予算化、同年5月には盛大な起工式が挙行されました 。
当時の熱狂は凄まじく、県内各地から50台ものタクシーが集結し、来賓を運んだと伝えられています 。
しかし、本格的な修築を前に、ある課題が浮上しました。それは、大規模な港湾建設を支える地元の建設業者が不足していたことです。
昭和5年、当時の小名浜町長・小野晋平氏は、東京・神田三崎町で運送・建設業を営んでいた太田武彦に熱烈な要請を送ります。「商港修築が始まったが、地元には建設業者が少ない。力を貸してほしい」と。
この要請を受けた太田武彦は、「自分を必要としているのであれば、小名浜に骨を埋める覚悟で地域のために」との決意を固め、昭和6年(1931年)、小名浜の地に移り住み、土木工事請負業を創業いたしました。これが三崎組の歴史の始まりです。
東京の「三崎町」の名を冠した社名には、故郷への想いと、新天地・小名浜の未来を背負う不退転の決意が込められていました。
「白だすき隊」の情熱と港の存亡
三崎組が歩み始めた矢先、小名浜港は最大の危機に直面します。政権交代による国政の混乱と緊縮財政により、小名浜商港の予算が大幅に削減され、事実上の工事中止が決定してしまったのです 。この絶望的な状況を救ったのが、小名浜の歴史に語り継がれる「白だすき隊の陳情」でした 。
町長・小野晋平氏を総括責任者とし、217名(一説には115名)もの有志が結集 。彼らは羽織袴に白だすきを締め、当局の監視を逃れるために複数の駅から分散して常磐線に乗り込み、上京を果たしました 。反政府運動と見なされかねないリスクを背負い、明治神宮参拝後に内務省や大蔵省へ予算復活を直訴した彼らの命がけの行動は、ついに国を動かしました 。この陳情の甲斐あって予算は復活し、昭和13年には商港岸壁が完成 。
三崎組もまた、この熱き想いを持つ先人たちと共に、地域の基盤を築く歩みを加速させていったのです。
「信用第一・感謝の心」で未来へ繋ぐ
戦中・戦後の混乱期、資材が枯渇する中でも、旧海軍の駆逐艦「汐風」を沈船防波堤として利用するなど、先人たちは知恵を絞って港を守り抜きました 。その想いは、昭和31年の国際貿易港としての開港、そして現在の国際バルク戦略港湾としての発展へと脈々と受け継がれています 。
私たち株式会社三崎組は、初代が抱いた「小名浜に骨を埋める覚悟」を原点に、いわき市・東京を中心に人々の生活を豊かにするための活動を続けてまいりました。市民が安心・安全な日々を送るために不可欠な建設業という職業に、私たちは大きな誇りを持っています。
その根幹を支えるのが、私たちの社是である「信用第一・感謝の心」です。一人前の者に必要とされることは第一に”信用”であり、その信用を築くためには、日々支えてくれる周囲への”感謝の心”を忘れてはならない。
この想いは、白だすき隊が示した地域への愛や、困難な時代を切り拓いてきた先人たちの精神そのものです。
これからも三崎組は、この社是を胸に刻み、更なる技術の研鑽に努め、小名浜港が歩んできた歴史の重みを感じながら、これからの未来を地域の皆様と共に築き上げていきます。

【参考資料】

